令和4年7月号 「手話通訳者の体験談」
 市主催の手話講座を受講して、手話サークルへ入会した私が、手話技術もまだまだの頃の話です。
 ベテランのMさんに誘われて、ろう者7人聴者5人計12人の女子組で沖縄旅行へ行きました。沖縄も、ろう者の方と共に2泊3日を過ごすのも初めてでした。拙い手話と身振りで、青い空やきれいな海などを満喫してホテルに到着。食事も済み、全員一部屋に集合してのお楽しみ会、ゲームやクイズ、そしてサプライズはろう者Yさんの「安木節」でした。小道具も準備されていて、それはとても見事な踊りでした。後で手ほどきを受け、皆で踊りました。楽しかった宴会も終わり、各自部屋に戻り眠りについた頃、「ガラガラ・バタンバタン」で目が覚めました。起きてみると「あ~トイレか~」。眠りにつくとまた「ガサガサ・ゴソゴソ」。お土産の整理をしている音でした。「そうか!音のない世界って雑音もないのだ!」。ようやく気付いた夜でした。聴こえない世界を知り、手話サークルと共に過ごして30年になります。

令和4年6月号 「コーダ(CODA)」
 2022年1月に日本で公開された映画「コーダあいのうた」は、第94回アカデミー賞で3部門受賞しました。コーダとは、アメリカで生まれた言葉で、‟聞こえない・聞こえにくい親”を持つ‟聞こえる子ども”のことを表しています。日本でも、3月からNHKで「しずかちゃんとパパ」というドラマが放送されました。しずかちゃんがコーダの作品です。作品の中に、聞こえる家庭では見られない光景が出てきます。例えば、聞こえない父親を呼ぶときにお手玉を投げて気付かせること。誰の話をしているかを明確にするために指差しをすること。どちらも「親に物をぶつけるなんて」「人に向かって指差すなんて」あり得ないと非常識に感じるが多いと思います。しかし聴覚障がい者の家庭では、当たり前に行われている行動です。皆さんが遠くから「お父さん」と叫んで呼ぶように、気付いてもらうことが大切なのです。(物を投げるのは家族に限った行動です)

令和4年5月号 「ろう者との関わり~出会いから広がった人生」
 私が初めて出会ったろう者は、近所の八百屋で出会ったおじいさんです。まだ小学生の頃で、正直「怖い」と感じました。その後大学生になった私は、身体障害者福祉協会の体育大会にボランティアとして参加し、手話通訳者に出会ったことをきっかけに、手話サークルに入会しました。言葉(手話)を学ぶことで、ろう者の方と意思疎通できると、不安な気持ちなど一切なく、友人のように近づいていくのが分かりました。
 家業を継ぎ会社を任されたころ、あるろう者から、今の仕事を辞めたいと相談を受けました。彼は絵を描くことが得意だったので、私の会社で働かないかと誘うことにしました。社長と従業員の立場になることで、これまでの友人関係を続けていけるだろうかと悩みましたが、彼の職人としての技術を買っての決断でした。彼は会社になくてはならない人材になり、彼も手話で会話できる環境が馴染んだのか、定年まで楽しそうに働いてくれたことが、私の励みにもなりました。

令和4年4月号 「設置手話通訳者」
 現在、岐阜県で手話通訳者を置いているのは、14市町村です。設置通訳者の業務は市町村によってさまざまです。
 土岐市では、平成元年度から嘱託職員(週3日勤務)として手話通訳者が採用されました。「市役所に手話通訳者を!」と聴覚障害者協会からの嘆願がきっかけで、市議会にて承認されました。当時はまだ認知度が低い手話通訳者。福祉課の職員も配置された手話通訳者も、試行錯誤しながらのスタートでした。「自分で道を作るしかない」と、上司と相談しながら、高齢ろう者の家庭訪問や病院へ出向いての手話通訳など業務の幅を広げていきました。
 現在、設置手話通訳者の業務は、市役所での通訳・手話通訳者の派遣・手話奉仕員養成講座の開講・高齢ろう者宅への家庭訪問・広報とき「ようこそ手話の世界へ」の執筆などです。意思疎通の橋渡しはもちろんですが、手話を使う人達への理解を深めてもらうことが大切な業務だと思っています。今年度の広報ときでもそのことを伝えていきたいと思います。

令和4年3月号 「手話通訳者は語る」~目に見えない障害~
 私は手話通訳者として、40年以上ろう者と関わってきました。「耳が聞こえない」という障がいは、外見だけでは分かりにくいものです。見た目にはどこにも不自由さは見当たらないため、障がいがあるとは思えないでしょう。
 以前こんな事がありました。知らない相手から声を掛けられたT君が、返事をせずそのまま行こうとしたら、突然その相手から暴力を振るわれたのです。まさかT君が耳の聞こえない人とは思わず、T君が返事もせず無視して行くのに相手が腹を立てたのではないでしょうか。
 これはほんの一例です。ろう者の一番大きな困難は、聞こえないことで周りの人とのコミュニケーションがとれないことです。このことが、生活のあらゆる面で壁となり、生きずらさを生みだしています。手話通訳は、そんなろう者の気持ちや言葉をくみ取り、社会とつなげる役目を担っています。誰にでも優しい社会を築く一端になれたら、幸いに思います。

2月号 「ろう者は語る~手話で広がった世界~」
 生まれつき「ろう」でありながら、私は中学生まで、手話を知らない世界で必死に発音訓練をしていました。当時の社会では「障がい者本人が頑張るべき」という考え方がありました。「聞こえない人は、聞こえるようになって話せるようにならなければならない」という空気の中、私自身も「わずかな音でも聞いて話せた方が良い」と思っていました。しかし、高校生でろう学校へ入学してから毎日、ろう者同士のコミュニティの中で、見よう見まねで手話をすることで、相手の話が理解できるようになってきました。私の言いたいことが「通じる!」という喜びは大きかったです。それからは、手話を知ることでさまざまな世界が広がりました。「百パーセント分かり合える言語は手話だ」と確信しました。
 聞こえなくて良かったことがたくさんあります。それは、多くの優しさに出会えたこと、社会のさまざまな壁に気付けるようになったことです。聞こえない人でも、楽しい生きやすい社会を、これからみんなで考えていけたらと思います。

1月号 「運転免許制度」
 1967年に岩手県で無免許運転をしたろう者が検挙され裁判になりました。これがきっかけになり、道路交通法第88条の改正を求める運動が広がりました。その結果、補聴器を付けて「10m離れて90デシベルの警音器」が聞こえれば、運転免許を取得できるようになりました。以来、多くのろう者が運転免許を取得し、職業選択の幅が広がっています。その後も運動は続き、2008年には、補聴器を付けて聞こえない人でもワイドミラーと「ちょうちょマーク」を付ければ普通乗用車を運転できるようになりました。市内でも「ちょうちょマーク」を見かけるようになったのはそのためです。さらに2016年、二種免許取得(条件あり)が認められたことで、子どもの頃からバスの運転手が夢だった聴覚障害者の青年が、『東京バス』で羽田空港リムジンバスの路線デビューをしました。
 さまざまな資格や免許を取得できるようになり、ろう者の社会参加や雇用の場がさらに広がっています。新たな職業に就くろう者を心から応援したいです。

12月号 手話の魅力「意味を考えて表す」
 日本語には、一つの言葉でも色々な意味を持つ「多義語」や、発音が同じでも意味が違う「同音異義語」などがたくさんあります。手話で話す時は、その言葉にこだわらず、状況に合った具体的な意味や視覚的なイメージで手話を選ぶことが大切です。
 例えば「いい」という言葉には、「good(良い)」の他に「構いません」「ぴったり」「要らない」などいろいろな意味が含まれています。聴者は声のトーンで含まれた意味を感じることができますが、聞くことができないろう者には、具体的に表現することが重要です。聴者が「10時10分前に集合」という言葉を使う場合、ろう者は「9時50分集合」と具体的に表現します。「10時10分前」を手話で表現すると、「10時10分の少し前」と間違って伝わる場合があるからです。
 聴者には声のイントネーションで伝わることも、手話では誤解を生まない具体的表現を選ぶことが大切です。

11月号 「ろう者の生活環境を聞く」
 私は10年ほど前から土岐市で暮しています。小学校から高校時代までは、ろう学校の寄宿舎で過ごしました。幼い頃は親元から離れて生活することが寂しかったです。当時の学校は、現在と違って口話教育が厳しく、手話は禁止でした。授業は、黒板に書かれた内容と先生の口形を読み取る方法でしたので、授業の内容が分からずついていけませんでした。ろう学校の高等科(高校)で木工を専攻したこともあって、家具を作る会社に就職しました。従業員は7人で私以外は聴者でした。必要なことは筆談で伝えてくれたので困ることはありませんでしたが、会社の宴席では、会話も分からないまま食事をしていました。やはり、手話で自由に会話できることが最高の幸せなのだと思います。
 土岐市で暮して、初めて「陶器祭り」を知りました。とても興味深くて毎年楽しみにしています。しかし、夏の暑さには参りますが・・。今後、土岐市民として地域の行事に参加したいと思っています。

10月号 手話の文法「語順の違い」
 今、日本で「手話」と呼ばれているものには、「日本手話」と「日本語対応手話」の2つがあります。「日本手話」は、ろう家族やろう学校などのコミュニティで育ったろう者の母語で、多くのろう者が使用しています。日本語とは文法が異なり、違いのひとつに語順があります。例えば、「私は4人家族です」を「日本手話」で表すと、「私/家族/4人」になります。その他、『名前』『年齢』なども次の順序で表現します。
 「山田です」は「名前/山田」
 「20歳です」は「年齢/20」
 「日本手話」は、今から話すテーマを先に表してから具体的な内容を表します。外国語を勉強するのと同じように、日本語との違いが新たな発見となり、勉強すれば誰でも使えるようになります。
 「日本語対応手話」は、そのままの語順で、日本語に手話の単語をあてはめるものです。
 ろう者はこの2つを、それぞれ毎日の生活で大切に使っています。

9月号「NET119」
 電話ができないろう者の多くは、緊急時に消防署に連絡を取れないでいます。その対策として、あらかじめ記入事項を示している用紙を使いFAXで消防署に連絡する「FAX119」という方法がありましたが、しかしこの方法では、FAXのある場所からの通報のみとなり、会話のやりとりができません。このため総務省は、インターネットを活用した「NET119」の全国普及に動き、昨年度、県下でもほとんどの市町村で運用が開始されました。土岐市では、昨年10月に聴覚障がいと言語障がいの方に案内が送付されています。「NET119」システムは、GPSを活用するため現在地も即座に分かり、市外・県外でも対応が可能です。障がいをもっている方自身が、スマホから直接通報できる「NET119」を登録すれば、いざというときに役に立ちます。
 その他「NET110(警察)」「NET118(海上保安庁)」システムが整備されていて、緊急時に役立った実例もあります。 

8月号「ろう者の両親に育てられて」
私の両親は、昭和初期の生まれで現在は他界しています。両親と私の3人家族でした。私が小学校4年生のときに、自宅に電話をつなぎました。それ以前、クラスの名簿には私だけ電話欄に「呼」が付いていました。隣の家で電話を借りていたからです。私が10歳になったことで、電話に対応できるだろうと両親が考えたからでした。最初の電話がかかってきたとき、ドキドキしたことを今でもおぼえています。
 母は夕方、仕事が終わり家事を済ませると、町内のろう者宅へよく出かけていました。今思えば、電話は出来ない、当時はファックスもない、直接会って手話でおしゃべりすることが唯一の会話手段だったのだろうと気づきました。
 私と同じ立場の友人・知人には、親が障がい者であることが理由で、子供の頃いじめにあったことや、交際相手の親から結婚を反対された人がいます。しかし、私は全くその様な経験がなく還暦近くまで過ごしてきました。誠に恵まれた環境です。今後、同じ立場の人たちが、私のようにやさしい社会で生きられますように願います。

7月号「ろう者の言葉~地元の方に聞く~
 私は生まれたときからろう者で、小学校まで地元の学校に通い、中学校から高校の6年間は岐阜市にある聾学校で過ごしました。
 保育園の頃、補聴器を取られたりするいじめに遭い、それは小学校1,2年生まで続きました。しかし、3年生になった頃から、親切にしてくれる友達が勉強の内容を筆談で教えてくれるようになりました。小学校の卒業式、別々の学校に進学することが寂しかったことを覚えています。
 中学校からは寄宿舎生活になりました。月曜日の朝に岐阜市まで行き、金曜日の夕方自宅に帰る生活です。当初は母が送迎してくれましたが、学校生活に慣れた頃から、一人で電車・バスを利用して通学しました。電車で寝過ごしてしまったことや、駅で偶然出会ったおばさんと一緒にバスに乗って、親切にしてもらったこともあります。
 今気がかりなのは、大きな災害が起きた時どうしたらいいかを知る手段です。お近くにろう者が住んでいる方は、情報を教えていただきますようお願いします。

6月号「手話の語源」
手話の単語を覚えることは大変ことだと思われがちですが、先人のろう者達が日々の生活の中で作り出した手話には語源があり、それを知ることで楽しみながら覚えることができます。
パターンはいくつかありますが、例えば次のようなものです。
【物の形から】山・橋・島・藤(花)など
【物の動きから】村・東・本・鈴など
【漢字の形から】田・中・小・井など
【歴史上の由来から】加藤(加藤清正)・佐々木(佐々木小次郎)など
【言葉の意味や読み方から】佐藤(砂糖)・渡辺(鍋)など
 名前を表す場合は、漢字手話の組み合わせを使って表現することが多いです。都道府県の名前を表す場合も、漢字手話での組み合わせで表現することが多いですが、独自の手話で表現するもあります。岐阜県は鵜飼いが有名であることから、鵜のくちばしを表して【岐阜】と表現します。語源を知ることで印象が深まり、記憶に残ります。

5月号「手話通訳者に聞きました」
 私は20年ほど前に「君の手がささやいている」(聴者の青年とろう者の女性が知り合って結婚するストーリー)を読んだことがきっかけで、土岐手話サークルに入会しました。手話が楽しくなり、さらに技術を向上させるため、可児市や多治見市の手話サークルにも入会しました。たまたま多治見市のサークルで同年代のろう家族と知り合い、休日も一緒に過ごすうちに技術も向上し、登録手話通訳者試験に合格できました。
 昨今はお互いマスク着用のまま手話で会話なのですが、長年の付き合いのおかげか口形が見えなくても会話が成立し、楽しい時を過ごしています。
 手話サークルで手話を教える講師と習う生徒の立場だけではなく、同じ趣味を持つ仲間としての交わりがノーマライゼーション(障害を持つ者と持たない者が平等に生活する社会を実現させる考え方)につながっていくのだと思います。